「明治天皇と日露大戦争」「天皇・皇后と日清戦争」に次ぐ、新東宝「天皇三部作」の最終作。 乃木大将の旅順攻略、二百三高地の戦いを中心に、明治天皇の崩御までが描かれている。 展開は相変わらず…と言うか、静的で様式的な宮中での描写と、御殿場辺りと推測されるロケとセットで撮られたのではないかと思われる戦闘シーンの繰り返しに、時折詩吟が重なると言うお馴染みの演出。 戦いの一部には、前作までの流用フィルムが使われていたりするが、雪の中の二百三高地の戦いなど、それなりに見応えのあるシーンもある。 ただ、エピソードの羅列に、時折、アラカン扮する明治天皇の姿が挿入させると言う平板な構成が、さすがに3作目ともなると鼻についてくる印象は否めない。 丹波哲郎、宇津井健と言った新東宝お馴染みの若手俳優陣がほとんど出ていないのも寂しい。 つまり、主役のアラカンと沼田曜一や高倉みゆき、細川俊夫と言った常連を除くと、ほとんど無名の俳優さんばかりと言った印象で、何だかスペシャルテレビドラマでも観ているような印象さえある。 とは言え、乃木希典を演じている林寛などは、馴染みはないながらも乃木の雰囲気は良く表現しており、エピソードが多いこともあり、歴代の乃木の中でも印象に残るような気がする。 沼田曜一の児玉大将もなかなか良い。 戦争映画としては3分の2辺りで山場を迎えてしまうため、残りは御崩御までの繋ぎと言った感じのエピソードになっており、後半ややだれるのが難かも知れない。 ラストの流れる明治天皇の「御大葬の日」の場面には、時折、モノクロの記録映像のようなものが挿入されているのだが、当時の記録フィルムなのであろうか? それにしては画質が良いし、民衆をきちんと写している所など、今風の演出にしか思えない。 部分的に記録フィルムを織り込むために、わざとモノクロで新撮して、違和感がないように調和させているのかも知れない。 旅順攻略を描いた作品としては貴重だと思うが、さすがに新味は感じられず、興行的には奮わなかったのではないかと思う。 |
▼▼▼▼▼ストーリーをラストまで詳細に書いていますので、ご注意ください!▼▼▼▼▼ |
1959年、新東宝、大蔵貢原作、館岡謙之助脚色、小森白監督作品。 明治神宮の映像(「君が代」ながれる中) 乃木神社の映像 雪が降る宮中 日露の風雲急を告げる明治37年1月、明治大帝(嵐寛寿郎)は国難に対処して日夜心筋を悩ませられていた… 一方、歌を詠まれる昭憲皇后(高倉みゆき)に付き添っていた女官が、今宵はことのほかの大雪、寒さも厳しゅうございますから、この上はもうお休み遊ばされては…とお声をかけていた。 ロシアは旅順に世界最大を誇る難攻不落の大要塞を築き、ほとんど戦争体制を完了しましたとの報告を受けましたと、岡沢中将(九重京司)から声をかけられた明治天皇は、日清の戦いでは大山や乃木が2日で陥落させた旅順であった。乃木にも久しく会わんな…と仰せられる。 予備役のお許しを笑ましてから、那須が原の別邸で農業にいそしんでおります…と岡沢中将は答える。 その答えに静かに頷かれる明治天皇。 若い兵隊たちの野外訓練を暖かいまなざしで見守っていた乃木希典(林寛)だったが、旦那様!と下男の村井久助(武村新)が呼びに来る。 東京から坊ちゃんお揃いでお見えになりましただと久助が伝えると、乃木はそうか…と答える。 床の間に貼られた地図を観ながら、お父さまも、毎日、満州地図をご覧になっているんだな…と兄勝典(片岡彦三郎)が言うと、安閑としてはいらっしゃらないんですね…と弟保典(和田桂之助)も答える。 兄が、お父さまの和歌だよ…と飾ってあった色紙を見つけると、「埋れ木の花咲く身にはあらねども 高麗(こま)もろこしの春ぞ待たれる」と弟に詠んで聞かせる。 台所で蕎麦を打つ準備をしていた静子夫人(村瀬幸子)は、奥様、旦那様のお帰りですと久助が知らせに来ると、そうですか!と喜び、あなたがおっしゃった通り、勝典と保典が参りましたと、直後に帰って来た乃木に報告する。 勝典と保典は腕相撲を取っていたが、良く来たな…と乃木が姿を見せると、嬉しそうに挨拶をする。 今日は日曜日じゃ、ゆっくりして行けと乃木は勧めるが、いえ、夕方までには隊に帰らなければなりません。いつ出動命令が出るか分かりませんので…と勝典が答える。 お父さま、いよいよロシアと始まりますよ。東京では腰抜け政府をやっつけろ!ロシアを倒せ!と人々は大騒ぎをしておりますと保典も言う。 保典、軍人は政治に口を出しては行かんぞ。軍人はひとたびお召しになった時には、いつでもお役に立つように覚悟していなければいかん…、分かっているな…と乃木が諭すと、兄弟揃って、はい!と答える。 そこに、静子夫人が、お父さまがあなた方の事をお当てになって、作っておいたのだと言いながら、大量の蕎麦を持って来る。 もうこのお蕎麦も、食べ納めになるかもしれませんねと保典が笑顔で言うと、勝典の神妙に、うん!と答える。 それを聞いた静子夫人は顔を曇らせるが、乃木は御酒の葡萄酒を出させる。 開戦の暁は、お前たちの出征は必定じゃ。戸隠武士の教訓はな、およそ武士たるものは、生死を離れざれば何ごとも役に立たぬ…じゃ。分かったな…と乃木は兄弟に言い聞かす。 もしも開戦の暁には、是が非でもお召しを頂かねばならぬ。陛下にお預けしたわしの命を捧げる時が来たのだ…と乃木は考えていた。 (回想)明治10年2月 西南の役 西南の時、連隊長として、わしは薩摩の反乱軍と戦った… 熊本城 自分は陛下から賜った軍旗を敵に奪われた… 連隊長たるわしは、軍法会議にかけられて厳罰に処せられん事を望む… 乃木の前に現れた大山元帥(近衛敏明)は、かねて提出した大罪者に対する陛下よりの御沙汰書が下がったぞ…と書状を手渡すと、乃木、陛下は軍旗の事に付いては何のお咎めもないばかりか、今後の軍務に励み、いっそう自重せよとのありがたきお言葉を賜った。くれぐれも軽挙妄動は行かんぞ!と縛める。 乃木、陛下は畏れ多くも、重要たる臣民の命と軍旗とどちらが大切か?と仰せられたそうだ。貴様のように幸せな男はおらんぞ!と、同行して来た児玉大将(沼田曜一)も乃木の肩を叩いて慰める。 しかし、1人になった乃木は、辞世の句を詠み、自決しようとしていたが、部屋に偶然入って来た児玉大将が、乃木!何をするんだ!と叱り、止める。 児玉、俺は死んで陛下にお詫びをするんだ…、死なせてくれ!と乃木は言うが、貴様!陛下の大御心に対し奉り、何たる事をするんだ!と児玉は叱責する。 俺には、陛下のお情けを幸いに犯した罪を免れることは出来ない!と乃木が言うので、 貴様と俺とは一緒に武士道を学んだが、腹さえ斬れば責任は免れるなどと言うことは教わったか?死ぬ決心をしたのなら、立派に働いて死ね!と児玉が諭すと、児玉…、俺が悪かった…、俺の命は今より陛下にお預け申し上げる…と言いながらmの義は深々と頭を足れるのだった。 (回想明け)巷では、ロシアの餌食となるのか!否、我々国民一同、断固として戦わねばならん!横暴ロシアを討て!断固として国難に当たれ!と弁士たちが路上で民衆を焚き付けていた。 御前会議 ロシアは、我が小村大臣とローゼン公使との第16回会談の後、依然として何の回答もなく、これ以上待つ事は、ロシアの野望に乗ずられるばかりであります。 ウラジオ艦隊及び旅順艦隊が、今朝5時、戦闘態勢を完備して出航、行く先不明との情報であります…などと閣僚が報告をしていた。 もはや一刻の猶予も許さぬ事態になりました…と山県元帥(細川俊夫)が報告すると、ロシアとの平和交渉は全く絶望なのか?と陛下がお尋ねになり、閣僚一同、はい!と頷いて頭を足れる。 山県、国民は共にいかなる苦労も忍ぶか?と陛下がお聞きになると、国民は最後の一兵まで、全てを投げ打って戦うと叫んでおりますと山県元帥は答える。 陛下はお立ちになり、ロシアが戦争を挑むならやむを得ん。国交断絶を裁可すると発言される。 明治37年2月10日 宣戦布告 黒木大将率いる第一軍は、直ちに朝鮮に上陸して一路北上、鴨緑江(おうりょくこう)を渡河し満州に進攻した。 次いで、第二軍は遼東半島に上陸し、南満州に進撃した。 南山総攻撃 この戦いの最中、乃木勝典が戦死する。 近衛師団司令部 馬に乗って進んでいた乃木は、前線に出ているであろう息子たちを思い、羨ましいよなどと部下と話していたが、そこに馬で近づいて来た大内少佐(小浜幸夫)が、閣下…と言ったきり口ごもり、ただいま、ご令息の勝典少尉が…戦死されましたとの…、報告がありました…と言い難そうに告げる。 南山の戦いで、立派な御最期だったそうですと大内少佐が付け加えると、乃木は、そうか…と答えるだけだった。 自宅に帰った乃木は、久々に上京して来た村井久助の出迎えを受ける。 一緒に出迎えた静子夫人は、乃木の表情に何事かを感じ取る。 書斎に入った乃木は、飾ってあった写真立ての中の写真に写った勝典と保典の写真をじっと見つめる。 夕食の蕎麦を持って部屋に入ってきた静子夫人は、電気も点けずに窓際に佇んでいる乃木を不思議そうに眺めながら電燈を点ける。 久助が那須からそば粉を持って参りましたので、お蕎麦を作りましたの。勝典や保典がおりましたら、どんなにか喜ぶでしょうに…と静子夫人が言うが、乃木が無言のままなので、どうか…、なさいましたか?と静子夫人は恐る恐る尋ねる。 静子…、勝典は…、死んだよ…、立派な戦死だ…と乃木は伝え、南山は激戦だった…、勝典もお国のために立派に死んでくれたんだよ。お前も軍人の母として覚悟は出来ているはずだ、分かっているな…と静かに言い聞かす。 勝典…、あなたが好きなお蕎麦ですよ…と、静子夫人は仏壇に蕎麦を供え、部屋の外では話を伝え聞いた久助たち、家人たちも涙ぐんでいた。 御前会議 その方を、近衛師団長の職を解き、第三軍司令官に任命する!と陛下は乃木に命じられる。 乃木、近う進め!と仰せられた陛下は、旅順要塞攻略の成否はロシアとの戦争の勝敗を左右する重大なるものであるぞ!万難を排し、勝利に邁進せよと仰せられる。 既に我が軍は、十数万の大軍を南満州の荒野に送り、一大戦線を展開していた。 塩大澳(えんたいおう)に上陸した乃木将軍は軍大将に任ぜられ、第三軍を率いて旅順に向かった。 馬上の乃木に、南山です。勝典さんのお墓もあるはずです。お参りなさいますか?と部下が聞く。 「陸軍歩兵中尉 乃木勝典」と書かれた粗末な墓標に、乃木は野花を供える。 その周囲には数多くの墓標が立っていた。 第三軍司令部 第三軍は一挙に敵を粉砕せんと旅順北方に司令部を設けた。 特に大山元帥は満州軍総司令官となり、児玉大将も又、総参謀長に就任した。 この旅順の要塞は、南は海に臨み、その北を取り巻く、太白山、東鶏冠山、松樹山、二百三高地には600の砲と3万に余るロシア最強の兵、金城鉄壁の砲台で固め、敵将ステッセルをして、現在のまま補給なしで日本と激戦しても二年は籠城出来ると豪語していますと、作戦会議で旅順大要塞の説明がある。 日清戦争のときとは比べ物にならぬ大要塞になっていた。 しかし、戦略上、ロシア本国からバルチック艦隊が来るまでには、絶対の落とさねばならぬ…と児玉総参謀長が言う。 日清戦争のときのようには参るまいが、海軍の旅順港封鎖を待って、一挙に総攻撃を開始しますと乃木は答える。 8月19日 第一次旅順総攻撃 日夜を問わぬ攻撃が繰り返させるが、猛烈な敵の反撃を受け、瀕死の伝令が、甚大な被害を被り、ただいま激戦中であります!、右翼中隊全滅!などと次々に、乃木が控えていた前線本部に報告に来る。 敵戦4日に渡るも、総攻撃ついに成功せず。 我が軍の犠牲は、既に1万5000に達した… 第三軍攻撃は、まんりゅうざん攻略に成功せる以外は、敵機関砲の猛火に陥り、ついにその目的を達せず、多大な損害を被りました。なお、第三軍の補充には直ちに御用船常陸丸、佐渡丸をして後尾連隊の輸送に当たらせております…と山県元帥が陛下に報告する。 海軍は日本海沿岸の警備と旅順港口封鎖のため、艦艇が不足していた。 しかし、旅順第三軍増援のため、やむなく常陸丸と佐渡丸は護衛艦もなく、単身無装備のまま出航した。 霧の中を進む日立丸は敵艦に遭遇、攻撃を受けるが、無装備のため、逃げるほかはなかったが、敵艦の速力の方が早く、逃げるのは困難。 やむなく、接近して来る敵船に対し、一人でも敵を倒すため、小銃で応戦せよと連隊長は命じるが、敵の猛攻に通じるはずもなく、常陸丸、佐渡丸共に壊滅的な損害を被る。 輸送指揮官須知中佐(小林重四郎)は、大久保少尉に軍旗を出させると、敵と戦わずして死ぬのは残念だ。最期に陛下に万歳三唱する!と言い、天皇陛下万歳を叫ぶと、自ら軍旗を火に投じた後、その場で自刃する。 副官たちや生き残っていた兵隊たちも、それに殉じ、次々に腹を斬って果てる。 常陸丸と佐渡丸の悲劇の方を受けた陛下は、無言で立ち尽くす。 乃木も、本部でこの悲報を受け、何としても旅順を陥落させるのだ。第二回総攻撃は現在の兵力を持って決行する!と伊知地参謀長(若宮隆二)以下部下たちに命じる。 そこに、保典少尉がやって来る。 伝令に来たと言う保典はいつから司令部付きになったのだ?と、乃木は伊知地参謀長に聞く。 2、3日前からでありますと伊知地参謀長が答えると、お父さま、その事でお願いがあります。私を前線に戻して下さい!と保典は願い出る。 乃木少尉、あなたの気持ちは分かりますが、そうたびたび、人事の移動は出来ませんと吉岡少佐(御木本伸介)が答えるが、いかん!すぐに保典を前線に立たせるよう、旅団長に言いなさい!と乃木は吉岡少佐に伝える。 しかし、ご長男の勝典さんは戦死され、保典さんに万一の事があっては…と伊知地参謀長が言うが、そう言う事はいかん!何万人と言う国民の子弟を預かるわしじゃ。自分の子供だけ、安全な所に置くなどもってのほかだ!すぐに第一戦に戻すよう手続きをなさいと乃木は命じると、保典を隣室に呼び寄せる。 お父さま、ありがとうございました!私もこれで安心しました。戦死を覚悟で奮戦いたしますと保典は笑顔で礼を言う。 しっかり頼むぞ…と応じた乃木は、これはお母様から送って来たあめ玉だ、持って行けと手渡す。 お母様もお寂しいでしょうね…と保典が言いながら、そこに置いてあった写真立ての兄の写真を観る。 お前がお母様に送ってくれと寄越した勝典の最後の写真だが、お母様が哀しむといけないから、止めたよ…と乃木は答える。 お父さま!これでもうお目にかかれないかもしれません。これは兄さんが持っていた形見の時計です…と言いながら、保典は、胸ポケットから懐中時計を取り出す。 それから、前線で撮った私の写真ですと言い、両方を乃木に手渡す。 それを受け取った乃木は、立派な覚悟だ…と褒め、わしもお前と共に戦場に出て戦いたい…と嘆く。 お父さま!兄さんは戦死し、何万と言う部下を亡くしたお気持ち、お察しいたします!と保典も涙ぐむ。 第二回総攻撃 9月19日、第二回総攻撃が開始され、盤竜山、水師営砲台攻略に成功した我が軍は、敵最大の拠点、難攻不落と誇る二百三高地の総攻撃を全力を挙げて開始したが、頑強な反撃を受け、苦戦に陥った。 累々と横たわる死者 第二回旅順総攻撃報告書と戦死者名簿を提出しながら、第二回総攻撃も敵の反撃凄まじく、負傷者続出、乃木第三軍は苦戦しておりますと山県元帥は陛下に報告する。 戦死者名簿に無言で目を通される陛下 正面攻撃は全く無理です!現在では、負傷兵を収容する事すら出来ませんと指令本部の乃木は報告を受けていた。 敵の新兵器機関砲に比べ、我が方の大砲は全く貧弱です。28センチ砲すら歯が立ちません…と伊知地参謀長が言うのを聞いた乃木は、敵が最後の拠点として頑張っている二百三高地だ。苦戦は覚悟の上だ…と応じる。 明朝を期し、再び攻撃を続行する!と立上がった乃木は命じる。 テントの外に出て、丘を眺める乃木に近寄った伊知地参謀長は、閣下、少しお休みになって下さい。お身体に障ります…と声をかける。 その目の前を、兵隊たちが進軍して行く。 明日はあの兵たちにも死んでもらわねばならぬ…と、乃木は悲痛な表情で見送るのだった。 内地では、「旅順攻撃 死傷者多数」「我軍こう着状態 死傷三千八百」などと書かれた新聞の貼紙が貼られていた。 諸君!今や旅順において、二万余の我々の父や子や兄弟が戦死をした! 日清戦争では二日で陥落した旅順に一ヶ月も苦戦を続けるとは何ごとか! 乃木は何をやってる!ロシアのバルチック艦隊をどうするんだ!乃木を替えろ!などと国士たちが民衆に檄を飛ばしていた。 乃木の自宅には民衆たちの投石があり、静子夫人や女中たちは怯える。 玄関から出て抗議しようとするのを静子夫人から止められた書生たちは、閣下の事をあのように悪口抜かしやがって!と嘆く。 乃木の間抜け!旅順の失敗をどうするんだ!軍人なら切腹して、陛下と国民の前で謝罪しろ!などと屋敷内に乱入した市民は暴言を吐く。 しかし、悔し泣きする家人たちを前にして、静子夫人はじっと耐え忍ぶのだった。 その後、居間に飾られた乃木の写真を前に座り込んだ静子夫人は、あなた…と呟き1人涙する。 指令本部にも、乃木司令官を非難する国民からの手紙が送りつけられており、吉岡少佐は、私にはもう、これを閣下に差し出す勇気はありません!伊知地参謀長、今度はあなたが持って行って下さいと頼む。 伊知地参謀長は、山岡少佐(佐伯秀男)に、持って行ってくれと押し付けるが、そこに、隣室で声を聞いていた乃木本人が出て来て、わしの所へ来た手紙だな?伊知地!開けてみろ!読んでみなさいと命じる。 旅順攻撃を開始以来既に数ヶ月、二度の総攻撃を重ねるも未だ落ちず。味方をして戦死者激増するのみの状態に置かしめたるは、司令官たる貴下の無能によるものと、国民の激高、その極に達しおり候。しかるに、この間、然としていささかも恥じず、その地位に留まり、無為無策の日を送る貴下、古今未曾有の愚将と存じおり候。貴下もし武人としての面目を知らるるなら、多数の遺族に対し、即刻割腹を持って謝罪さられん事を勧告つかまつる候…と手紙を読み進んだ伊知地以下部下たちは、閣下の御威信も知らず、あんまりです!と皆悔し涙を流す。 無理もない…、内地の人がこうして憤慨されるのも、皆、わしが至らぬからじゃ…と乃木が言うので、閣下!と顔を上げた吉岡少佐は絶句する。 そこに、児玉閣下が到着する。 乃木!と司令室に入って来た児玉は、大分、苦戦しているようだな…と声をかけて来ると、伊知地、戦況はどうだ?と聞く。 第二回総攻撃は兵員多数を失い、残念ながら目的を達することができませんでしたが、目下秘密裏に坑道作戦を実施中でありますと伊知地は答える。 問題は、その坑道開削の速度だな…と児玉は言う。 二百三高地は地盤の岩石が固く、又、敵に察知されぬように進まねばなりませんから、日に2、3メートルでありますと答えると、間に合わん!それじゃ、間に合わんのだと児玉は言う。 と…言われますと?と伊知地が問うと、海軍からの情報によれば、バルチック艦隊は既に本拠地バールを出航しておる。それが東洋に着く前、遅くとも、12月までには、何としても旅順は落とさねばならないと児玉は言う。 それを聞いた乃木は、現在の坑道作戦を中止し、第三回総攻撃を決行する!それ以外に、今年中に旅順を落とす法はないと命じ、国民の怨嗟は、この乃木1人で引き受けると言う。 旅順における、乃木第三軍の現状を考慮いたしますと、この際、乃木司令官を更迭されましてはいかがでしょう?と山県元帥は陛下に具申する。 海軍側からも強く要望されております。慎んで陛下の御聖断を仰ぐ次第でございますと言われた陛下は、しばし考えられ、山県!寺内(守山竜次)!、その方たちが乃木の立場だったら、生きて祖国へ帰るまい?乃木を替えてはならん!乃木以外に旅順を落とすものはない。乃木は苦しんでいよう。激励してやるが良いと言われる。 ただちに、第三軍へ御誓詞を伝達いたしますと山県が答える。 旅順の要塞は、その容易ならざることもとより怪しむに足らず。しかれども、陸海軍の状況は旅順攻略の機をゆろうするものざり。この時に当たり、第三回総攻撃の挙あるを聞き、その時期を得たる事を喜び、成功を望む情、はなはだ切なり。汝ら、しょうおつ自愛努力せよ。明治37年11月27日 御名御璽…と大山総司令官が読み上げた御誓詞を聞いた乃木は、総攻撃を前に図らずも誘惑たる職務を賜りました事、第三軍将兵に取り、この上なき感激であります。この上は全員一丸となり、誓って、旅順攻略を成功いたします! はるかに皇居を配し、陛下の万歳を三唱すると大山総司令官が呼びかけ、天皇陛下万歳! 第三回総攻撃 雪が降り積もった中、乃木小隊はこれより行動を開始し、夜明けを待って二百三高地に突撃を敢行する。必ず敵陣地を奪取する事を望む!と乃木保典少尉が部下たちに告げる。 翌朝、雪の中の攻撃を開始した乃木保典だったが、敵の銃弾に倒れる。 司令部にいた乃木の元にやって来た吉岡少佐は、言い難そうに前線の報告をする。 そうした吉岡少佐の態度をみていた乃木は、分かってる…、分かってる…、倅の戦死の事だろう?と言うと、華々しい、御最期を遂げられました!と伊知地参謀長が答える。 静かに立上がり窓辺に寄った乃木は、保典の夢を見ておったよ…と呟く。 何しに来たのか!と叱りつけてやったのだが、別れに来よったのか…と乃木が教えると、閣下、御心中、御察し申し上げます!必ず一ヶ月以内に二百三高地を落とし、ご令息の仇を討ちます!と伊知地は涙ぐみながら言う。 馬に乗り、前線に累々と横たわる戦死者の様子を見る乃木。 乃木、万難を排し、勝利に邁進せよと仰せられた陛下の言葉が乃木の脳裏をよぎる。 戦死者名簿を観ていた陛下は、岡沢、乃木保典とあるのは乃木の子供か?とお聞きになる。 乃木には子供が何人あるか?と聞かれたので、2人でございます。その2人が立派な戦死をいたしましたと岡沢中将が答えると、岡沢、乃木の家を見舞うてつかわせと命じられる。 静子夫人を訪ねた岡沢中将は、陛下におかせられましては、ことのほかの御心痛と配せられましたと挨拶する。 畏れ多い陛下の思し召しに預かりまして、身に余る光栄でございます。亡くなりました子供たちも、さぞ、喜びます事でございましょうと静子夫人も礼を述べる。 2人のご令息を亡くされました心の内、何と申して良いか…、お察しいたします…と岡沢は頭を足れる。 雪の前線テントに、児玉総参謀長がやって来て、司令官はおらんか?乃木はどうした?と聞くと、今少し前、司令部にお帰りになりましたと吉岡少佐が答える。 そんなはずはない。今俺は司令部からやって来たんだ…と児玉は戸惑い、伊知地!乃木は死に場所を探しているかも知れん、気をつけろと言い出す。 前線では、山田中隊は二百三高地攻撃の準備ができたとの伝令が来る。 そんな中、坑道から出て来た乃木に、閣下、ここは危険であります。最後の総攻撃を明日に控えて、閣下の身に万一の事がありましては…、閣下、お願いであります。すぐ指揮所へお帰り下さいと富永中尉(沖啓二)が駆け寄って来る。 すると、乃木は、富永、明日の総攻撃で二百三高地は落ちるぞ。必ず落ちる!と断言する。 翌日の雪原での総攻撃。 壮絶な突撃の後、軍旗が翻る。 閣下!二百三高地は、ただいま陥落いたしました!と馬上の乃木に報告が来る。 それを聞いた乃木は、来たか…と呟き、部下たちが、閣下!と近づいて来る。 良かった!良かった!これで陛下にも国民にも戦死した幾万の兵にも、顔向けが出来る…と乃木は沈痛な表情で漏らす。 白旗を揚げ、日本軍基地にやって来たロシア軍を迎えた乃木は、敗戦の我々を厚く遇せられました貴国皇帝陛下の思し召しを慎んで感謝いたします。偉大なる皇帝陛下を頂く日本陸軍の強さに敬意を表しますと言う敵将に対し、貴国の軍隊も勇敢に戦いました。私の方こそ貴国の部下の勇猛さに敬服いたしましたと答え、両者は握手する。 日本では花火が打ち上げられる。 大勝利を納めた我が軍は、ついにロシアを屈服せしめた。 提灯行列が行われる。 帰国した乃木たちは、東京で凱旋を行う。 皇居 二重橋 昭和39年1月14日 宮中にて、乃木は陛下に報告をする。 乃木!旅順攻略に際して、そちがひとかたならぬ苦心をした事は良く分かっておる。このたびの戦勝は、いつにそちの功績によるものである。大義であった…と陛下は仰せられる。 乃木が感激しながら三歩後ずさると、乃木、死は易く、生は難し、良く良く身体を労れよ…。勝って死ぬ事は許さぬぞ!と陛下は言葉をかけられる。 現金なもので、市民たちは、乃木の自宅前まで提灯を振り、祝にやって来る。 しかし、家の中では、静子夫人と共に仏前で手を合わせた乃木が、勝典、保典…、お前たち兄弟2人が死んでくれたお陰で、何万と言う遺族の皆様方に、せめてもの申し訳が立つ…と、頭を足れていた。 お父さんも、お前たちと一緒に戦死がしたかった…。今日、陛下のお言葉がなかったなら、勝典、保典…、わしはお前たちの後を追う覚悟であったと告白する。 翌日、靖国神社を詣でた乃木の脳裏には、戦死して行った兵士たちの幻影が見えていた。 人力車で赤坂の新坂町にやって来た乃木は、急がなくて良い、お前さんは大分お年のようじゃが…と車夫に話しかける。 67で…と車夫が答えると、そりゃあご苦労じゃな…とねぎらい、息子さんはいないのかね?と聞く。 倅が生きていればこんな苦労はしませんがね…と車夫が言うので、先立たれたのか?と問うと、満州で死にましたと言う。 満州というと戦死か?と聞くと、二百三高地でやられたんで…と言うではないか。 二百三高地…と乃木が絶句すると、えれえ戦いだったそうで…、何でもうちの倅は、中村連隊長と一緒に全員戦死してしまったんですよ。乃木大将のお陰で、いくら兵隊を送っても、次から次へと殺されちまったんですよ。乃木大将は、血も涙もねえ、人殺しのひでえ大将ですよ。それが今、万歳、万歳、凱旋将軍と騒がれて…、旅順で死んだ何万もの兵隊は浮かばれやしませんがね。うちの倅は又、ばかっ正直な方でしたからね。乃木大将の号令通り、進め!進め!で真っ先にやられちまったんですよと車夫は言う。 息子さんは何と言う名かな?と乃木が聞くと、渡辺孝吉ってんで、一等卒で行って、死んで上等兵になりましたと言うので、うちはどこじゃ?と聞くと、四谷の貧乏長屋で…と車夫は答える。 俥屋さん、わしに、息子さんの御仏を拝ませて下さらんかな?道も途中じゃと乃木は声をかける。 そりゃ構いませんが、縁もゆかりもない旦那に…と車夫が戸惑ったので、いや、旅順には少しゆかりがあるものじゃ。それに、お国のために戦った兵隊さんを拝ませてもらうのはありがたい事じゃと乃木は答える。 そりゃ、どんなにか倅も喜びましょう…と車夫は感激する。 勝手を言って迷惑だろうが、頼む!と乃木は頼む。 車夫渡辺寅松(中村虎彦)が帰って来た長屋には、春子と言う盲目の孫娘(北村真知子)が待っていた。 乃木が、粗末な仏壇を拝むと、虎吉は礼を言う。 孝吉さんの娘さんかな?と、寅松が膝に乗せている春子の事を聞くとそうだと言う。 倅が戦死して間もなく、嫁も病気で亡くなり、この孫と二人っきりになっちまいましたと寅松は言う。 それはお気の毒じゃ…と同情した乃木は、お孫さん、目が悪いようじゃが…と尋ねる。 医者にかけてやりたいと思っとりやすが…と寅松は言うだけ、どうやら金がない様子だった。 そんな部屋の中を覗いていた住民たちは、あの爺さん、どっかで観た顔だな…と、乃木の事を言う。 これはほんのわずかだが、娘さんを良い医者にかけて直してあげて下さいと、乃木は金を包んだものを差し出す。 いや、拝んで頂いた上に、そんなものまで頂いちゃ…と寅松は遠慮するが、年寄の志じゃ、受け取って下さいと乃木は言い、手渡す。 春子も寅松に促され、おじちゃん、ありがとうと礼を言う。 お父さんもお母さんもない、可哀想な子じゃ。娘さんを大切にしてあげなさいよと声をかけ、乃木は歩いて帰る事にする。 その直後、紙包みを開いて中を確認した寅松は、あ、20円、こんな大金を!と驚いたので、近所の住民たちが入って来て、今のおじいさん、誰だと思う?と女房の1人が聞いて来る。 乃木大将だぜ!あのヒゲの具合は確かに乃木大将だ!などと男たちも教える。 それを観いた寅松は、え!乃木大将?そりゃ大変だ!俺はとんでもねえことを言っちまった!20円も頂いて、おりゃ、あの人の悪口言ってしまった!と動揺し、後を追って行く。 今の爺さん知らねえか?乃木大将は?乃木大将を知らねえのかよ?と近所の住民たちに聞いて廻る寅松に、おめえ、えれえことを言っちまったんだな〜と男が同情する。 寅松は、すまねえ!と叫んでその場に泣き崩れる。 御前会議 乃木大将の学習院院長への就任は、まことに適任と存じ上げますと山県が陛下に答えていた。 近来、家族の子弟に柔弱の気風あり。近く3人の孫も学習院に学ぶことになる。乃木、その方に教育の事を託するぞと陛下が仰せられる。 は!それほどまでに御信任を賜り、まことに畏れ多い事でございますと乃木が応ずると、そちも戦争で大切な子供を失い、さぞ寂しい事でしょう…。これからは学習院の生徒を皆、我が子と思うて、教育に励むよう…と、同席されていた昭憲皇后がお言葉をかける。 ありがたきお言葉、感激の極みでございますと乃木は頭を足れる。 かくして、乃木は、学習院の院長として赴任する。 御用馬の世話をしていた馬丁山田(国方伝)は、馬が最近老いて来たので、新しい御用馬とお取り替えになるそうですよと言う同僚に、馬でも人間でも年を取る事は寂しいもんだよ。わしも後三ヶ月でお暇を頂くんだが…、もうお別れだ…と寂しそうに打ち明ける。 おじさん、悪い事を言って、ごめんよと若い馬丁が詫びると、わしも30年もお勤めさせてもらったんだが、いつまでもこの馬の側を離れたくないんだよと山田は言う。 そんな山田と若い馬丁は、いつの間にか間近に陛下がお立ちになっていた事に気づき、慌てて頭を足れる。 そちは何歳になるか?と陛下はお尋ねになり、60歳になりますと山田が答えると、家族は?と陛下が重ねてお聞きになる。 独り者でございますと山田は答える。 馬と別れるのは辛いか?と陛下がお尋ねになると、はいと言うので、陛下は付いて来た岡沢に、この者に長く馬の世話が出来るよう、取りはかろうてつかわせと仰せられる。 山田は感激し再び頭を足れる。 明治45年7月19日 聖上陛下御発病 宮中にやって来た乃木は、他にもお見舞いの来客が多い中、やって来た岡沢中将が、病名もまだ何とも申し上げられませんと来客たちに説明するのを、ソファに腰掛けてじっと聞いていた。 来客たちがみんな帰った後も、ただ1人応接室に残っていた乃木に気づいた岡沢中将が、閣下、まだおられたのですか?と声をかけて来る。 時間も遅いようですから、もうお引き取りになられましては?と岡沢中将が勧めると、そうですか…、もう少しこうさせて下さいとの義は頼む。 私はなるべく陛下のお側にいたいのです…と乃木は答える。 7月28日 陛下 御重態におわせられる。 悲報は全国に報道され、津々浦々咳として声なく、国民は続々と宮城前に参集し、平癒を祈願した。 乃木も、陛下の御真影を前に自宅で正座していた。 しかし、29日午後8時頃より御病状漸次悪化し、同10時頃にいたり御脈、次第に微弱に陥らせられ、御呼吸は繊弱となり、御昏睡の御状態は以前、御持続遊ばされ、ついに今30日、午前0時43分、 7月30日午前0時 聖上陛下 崩御 この世、日本全土が悲しみに揺れ、絶望に深く沈んだ。 偉大なる指導者に対する、諦めきれぬ慟哭であった。 宮城前で泣き崩れる民衆たち。 乃木は、誰もいない宮中、陛下の椅子の前で立ちすくんでいた。 9月13日 御大葬の日 この日、二重橋より青山葬場殿に至る道の両脇には、午後8時の霊柩車のご出発を待ちかねて、早朝から人の波が揺れ、刻一刻とその数を増して行った。 市民は襟を正して、霊柩車ご出発の時を待った。 乃木の自宅 2人の息子の位牌が置かれた仏壇には蝋燭が灯り、正装した乃木は陛下の御遺影の前で正座し、横に座った静子夫人より、御酒の葡萄酒を盃についでもらうと、それを飲み、静、お前も頂きなさいと盃を渡す。 その時、弔砲(ちょうほう)の音が聞こえて来る。 もはや御発輦(ごはつれん)の時刻じゃ…、陛下のお側に行かれると思うと、長いわしの生涯を通じて、こんな嬉しい事はない…と乃木が言うと、はい、私もお供させて頂きます。勝典も保典もどんなにか喜んでくれる事でしょうと静子夫人も答える。 乃木と静子夫人は、御遺影に一礼すると、互いに見つめ合う。 乃木は、用意されていた二本の懐剣の片方を手に取る。 「うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり」 乃木の家の御真影の前には、遺書と2人の辞世の句が置かれていた。 伏見桃山陵 乃木将軍の墓 |