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MIFUNE:THE LAST SAMURAI

過去の写真や映像に、ゆかりの人物たちのインタビューを交えたドキュメンタリーで、もの凄く三船を掘り下げた…と言うよりは、初心者向けのTV番組と言われてもおかしくないような、ざっと三船の一生をなぞったような内容だが、スクリーンで見る三船の映像はやはり迫力があるし、中島春雄、土屋嘉男、夏木陽介、加藤武氏ら最近相次いで他界された方々の姿をスクリーンで見るのは感無量な部分がある。

ラストで香川京子さんが読まれた黒澤明の三船に当てた弔辞は聞くと、日本映画の黄金期が脳裏に浮かび、涙を禁じえなかった。

映画ファンとしては、司葉子さんの「当時の東宝はほとんど男性映画だった」と言う発言が興味深かった。

東宝作品では女性を掘り下げるようなことがあまりなかったので、松竹作品に出て初めて女性映画を経験出来たとおっしゃっているが、東映もそうだったと思う。

成瀬巳喜男監督作品などにも出ておられた司さんの発言だけに、会社の力の入れようの違いを指摘なさっているようにも聞こえる。

しかし女性映画の流れは、その後TVへと移行したので、松竹などの方が痛手は大きかったのではないかと思う。

土屋嘉男さんの、三船さんは我慢の人だったと言う発言も興味深い。

仕事現場ではじっと我慢し続けた鬱憤が堪り、夜、酒が入るとそれが爆発して、何度尻拭いをしたか分からないと言う話は、三船の仕事に対する真面目さ、昔の日本人男性の責任感の強さに対する逸話だと思う。

黒澤明が一時期鬱病だったとか、三船の晩年がアルツハイマーだったのではないかと言う発言ははっきり知らなかったし、戦時中の三船が少年兵たちの教育係だったと言うような古いエピソードなど、知らない部分も多かった。  
▼▼▼▼▼ストーリーをラストまで詳細に書いていますので、ご注意ください!▼▼▼▼▼
2018年、アメリカ映画、スティーヴン・オカザキ監督作品。

「羅生門」のキスシーン、盗賊役の三船が持っていた短刀を落す。

「用心棒」「宮本武蔵」の写真

タイトル

東京 ゴジラの壁画が描いてある砧の東宝スタジオ

入り口脇に描かれている「七人の侍」の壁画

東宝はかつて映画の黄金時代を築き、黒澤と三船は世界中に計り知れない影響を与えた。

三船は現代ヒーロー像の原型となった。

チャンバラ 殺陣師宇仁貫三氏が稽古後インタビューに答える。

三船に100回以上斬られた男 どう言うきっかけで今のお仕事を? 小学校5年生の頃、大津の瀬田の唐橋の所でチャンバラの撮影をやっていて、祖父と見に行ったのだが、その時、その中に法被を来た殺陣師が振りを付けているのを見てあの仕事をしたいと思った。

1897年 ルミエールが発明した映画は日本にも伝わり日本映画が始まった。

人気があったのはチャンバラであった。

当時のチャンバラは史実に基づいた歌舞伎から派生したものが多く日本舞踊に近かったが、やがて現実的になって行く。

佐藤忠男氏 チャンバラ映画は、14、5世紀から19世紀始め頃の封建時代、侍が支配していた。

侍は強そう立派そうだが、恋愛はしないイメージがあった。 一方で大衆はラブシーンを求める。

無声映画の時代劇映像が流れるが、劇中の浪人は娘に惚れてぽーっとしている。

阪妻の「雄呂血」映像

中島貞男氏

浪人は封建時代の江戸時代、職にも就けず鬱屈とした毎日を送っていたが、若者は自分の日々の鬱屈を江戸の浪人に被せて見ていた。

役所広司氏

侍は個を発展させて行ったのではないか。

「風雲城史」

自分を犠牲にして人を助ける。敵の方が物量も人数も多い中、立ち向かって行く少数派に応援したくなる…と役所広司さん。

「長恨」

捕り手たちとの戦いに力尽きかけてもなお、最後の戦いに向け、刀に付いた血を嘗め、自分を奮い立たせる主人公。

戦争 1931年、日本は満州に侵攻した後、各国と戦うことになる。

映画はプロパガンダに利用された。

加藤武氏

天皇陛下は神様だと教えられた当時の我々子供は小国民と呼ばれ、みんな陛下の子孫で、陛下の為に死なねばならぬと教えられた。

三船もその1人だった。 三船は中国青島生まれ、大連で育ったと三船史郎氏が語る。

両親は写真館を始めるが、商売は順調とは言えず、景気が悪いときは三船をモデルにして写真を撮った。

子供の頃の三船は喧嘩に明け暮れていたが、それは弟を守る為だった。

仕事の合間に映画館に行ったりしていたと言う。

20歳で徴兵、その頃初めて日本の地を踏む。

若い頃から声が低くどすの利いた声だったので、先輩兵たちから生意気だと言われていたらしいと史郎氏。

戦争末期の三船は、声変わり前の少年兵などを教育する立場だったらしいが、明日特攻に行く少年航空兵に、前の晩、すき焼きなどを作って食わせていたと言う。

特攻に行く時は天皇陛下などと言わなくて良い、お母さんとかおふくろとか言えば良いんだと言っていたらしく、そう云う話を泣きながら話していたのを思うと、相当辛い思いをしていたのだと思うと史郎氏。

広島の写真 三船の両親は戦時中に亡くなったが、その年代も場所も不明である。

スクリプター野上照代さん

あの時代は食料がない…

衣類、背広とか女性なら結婚式用の衣装などを食料と交換したんだ。 すっかり虚無になったと加藤武氏。

1円50銭と軍隊毛布を1枚もらって父は除隊したんですが、これは自分で裁断して作ったコートとズボンですと父の遺品を説明する史郎氏。

何を言っても良い、金儲けをしようと、当時は日本に活気があったと野上さん。

香川京子さん 当時は映画が唯一の楽しみだった。

本人は俳優をやる気はなかったようで、キャメラの助手をさせてもらうつもりだったらしい、ところが何故か書類がニューフェース応募の方へ回され…と史郎氏。

まさか受かるとは思ってなかったんですけど、受かったので、仕事としてやってみたいと思うようになりましたと香川京子さん。

彼女は希代の名女優になって行く。 「おかあさん」「東京物語」「山椒大夫」 三船さんは今までにないタイプでした、存在感が大きいでしょう?と香川さん。

三船は「銀嶺の果て」で主役デビュー、脚本の黒澤明は三船をベテランの志村喬と組ませた。

戦時中、弟を亡くした志村は、三船に取って親のような存在になった。

三船は撮影助手を諦め東宝の第一期生となり、動機の吉峰幸子と結婚し、11ヶ月後、史郎氏が生まれる。

「羅生門」を撮っている時、私が生まれたんですと史郎氏。

「羅生門」 三船さんは我々が考えていたような俳優とは違う、ぶっきらぼうでしょう?と中島貞夫氏

三船の演技は幅があり、感情も豊かなものだった、野生のライオンの動きを研究して、まるで檻の中の獣…とマーティン・スコセッシ監督。

バックを背景に躍動していた!おそらくもの凄く勉強していたんだと思う、そしてカメラの前に立つとそれらを全部忘れてがーと行くんでしょう、躍動している俳優と言う感じと役所広司氏。

黒澤は戦時中、戦争協力したような作品もあるので戦後反省し、権力者の言いなりになるのではなく、権力者とは関係なく、反発心を身体全体を使って表現させたのが三船さんでしょうと佐藤忠男氏。

黒澤は、三船を見た時、今までにない何かを発見したのでしょう。

三船さんは、自分の怒りや喜びを身体を武器に表現したんです。

「羅生門」では、見る人によって解釈が違うと言う、客観的ではない見方を世界に示し、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。

「宝の山に入る退屈男」 時代劇は徐々にマンネリ化していた。

そしてGHQは7年間、日本映画のチャンバラを禁止した。

その頃黒澤は時代劇大作を準備していた。 「七人の侍」 土屋嘉男氏は農民の代表を演じた。

僕「七人の侍」が東宝のデビュー作で、東宝に呼ばれたんですけど、黒澤さん、怖いと聞いてたんですけど、会ったらニコニコしていて、お地蔵さんみたいだった。

これから何ヶ月か撮影まであるから、志村さんや三船さんと3人で仲良く映画見たり飯食ったりしてくれって言われましたと土屋氏。

中島春雄氏、「七人の侍」と「ゴジラ」に出た役者 黒澤さんに呼ばれて、どの役をやるかピックアップさせられた。

役者って出来なくても出来るって言うんですよ、僕もいつでも出来ますって言った。

実際にやってみた時、東栄町でやったら、黒澤さんに呼ばれて、東映時代劇じゃないからもっとリアルにやってくれって言われたと中島氏。

厳しいですよ、黒澤さんは、自分の言う事聞かないとダメと言われる。

でも、黒澤は三船さんにだけは好きにやってくれと言っていたと野上さん。

日本映画を見たのは遅かったとスピルバーグ監督。 10代の頃見たのは「荒野の七人」だった。

でも後に見た「七人の侍」は違っていた、役者の動きがバレエのように美しかったんだ、三船は大地からはい出して来たような野性味があったとスピルバーグ監督。

監督が糸を引っ張りすぎると役者は操り人形になる。

三船と黒澤とは、目に見えない糸のような関係があったんだと思うとスピルバーグ監督。

黒澤さんは演技指導はしない、三船さんは努力の方だけど、同時にユーモラスな面もあったと野上さん。

「七人の侍」で三船演じる菊千代が左卜全演じる農民をからかい、子供たちが笑うシーン。

三船さんを一言で言うと我慢の人、我慢強い人だったと土屋氏。

昔は食う為に役者をやっていた人がいたんでしょうけど、三船さんもそうだったんではないか?でもやるからには男として恥をかきたくない…、それで努力したんだと思うと役所氏。

「七人の侍」のワンシーン、土に刀を何本も差し、1本の刀じゃ5人と斬れんと菊千代が説明する。

東映の「紅孔雀」上映館の前の客たちの写真 映画は好景気を迎えた。

三船は酒と車、この2つをこよなく愛した、時には同時に… 事故を起こした自動車の写真

三船は黒澤以外の監督の作品にも出た。

稲垣浩監督「宮本武蔵」

あの作品が大人の女を演じた初めての作品だったんです、最初はとても緊張しましたと八千草薫さん。

「宮本武蔵」は、三船が恋愛をする珍しい作品だった。

2人ともぎこちなかったんですけど、愛の形と言っても、日本人って慎ましいでしょう? 三船さんは堅苦しい感じじゃなかったです、真面目な方でしたからと八千草さん。

朝、ちゃんとメイクアップして出番の15分くらい前にスタジオに入っておられたので、私もそれを真似ようとしましたと八千草さん。

誇り高く、無私無欲…、危険な匂いがする男…、本来の侍の正しく生きていく姿…と役所氏

「蜘蛛巣城」 欣喜雀躍!黒澤さんの仕事は小さな役でもゲットしたかったと話す加藤武氏。

黒澤さんはお能に詳しい、三船さんのメイクや山田五十鈴さんのメイクも能面をヒントにしている。

私は殿様の3人いるガードマンの1人の役をゲットした。 小さな役だけど、3人3様に主役のように正装させられた。

三船三位ぶすっと刺されるんです。 そのシーンはそれで終わりなんですけど、監督には気に入ってもらったようですと加藤氏

時は保険に入ってないんですよ、使われているのは本当の矢、大学の弓道部の人に来てもらって近くから本当に射っていたと野上さん

側で僕も見ていて、僕にもやってみないかと言われたけど、嫌って言ったんですと土屋氏

あのシーンは、キートンやハロルド・ロイドのような身体を張ったアクションシーンで危険だ、それが画面から見えて来るとスコセッシ監督。

三船さんは黒澤さんにあれだけ惚れられて有名になったと言う恩義に報いたんだと思う。

三船さんは我慢の人だったと土屋氏 黒澤さんはそうじゃなかったと加藤氏 あの画面には緊張が漲っていたとスコセッシ監督

完全主義者だと言われるけど、黒澤さんに撮ってはそれが当たり前だと思っていた、全てを良くする為にね…と加藤氏

三船はゴジラと並ぶ日本の大スターになった。

三船は東宝専属として年間27本も出演した。

夏木陽介氏 あの頃は1年に350日くらい働いていた。

東宝にはレストランも控え室もあるんだけど、僕と三船さんは控え室には行かないで、メイクアップのまま昼休みの1時間ブラックジャックをしていた。 飯は外から店屋物を取って、三船さんはよくラーメンを食べていた。

三船は黒澤以外の作品に出たが、有名なのは「無法松の一生」と「或る剣豪の生涯」 「或る剣豪の生涯」には司葉子さんが出演している。

昼間はずっと忙しく過ごして1年間フル回転、あの頃の東宝は黒澤さんにしろ男性映画ばかりで女性は掘り下げない、松竹など外に出て初めて女性中心の映画に出会えた、そのくらい東宝は男性映画だったと司さん 黒澤こそが三船を光らせることが出来た。

「どん底」、後に「スター・ウォーズ」のヒントになった「隠し砦の三悪人」、「悪い奴ほどよく眠る」、そして希代の名作「用心棒」

黒澤明のご子息黒澤久雄氏は「用心棒」は、絶対みんなが喜ぶようなものにしようと思って作っている、他の物には人間の生き方とか色々なテーマが入っているけど、「用心棒」はとにかく面白がらせようと言う意気込みが見える、2人とも一番脂が乗り切っている作品じゃないかと指摘

この主人公は浪人なので誰に仕えるか考えていたが、結局、自分の正義に仕えることに決めたとスコセッシ監督

あの頃の三船さんは完熟していたと語る夏木氏 三船さんって優しいのよ、スタジオで立っていると椅子を出して座れよとぶっきらぼうにおっしゃったり、ロケに行って旅館の食事が良くないときは、自分でニンニクで肉や野菜を焼いて、おい、食べろよ!なんておっしゃって…、海みたいな人、とても広くて、ある時は荒れるでしょう?と司さん

瑞々しくて清々しい…と野上さん 僕はストイックな役ばかりやらされたんですけど、三船ちゃんは我慢の人、その我慢が身体に残っていて、夜になって酒を飲むと逆転するんだよ、何遍尻拭いをしたことか、渋谷のヤクザと喧嘩したりと土屋氏

ウィスキーでも日本酒でも1本空けないと食事が終わらない、時々酔った勢いで本身の日本刀を抜いたりして…、そう云うときは怖かったと史郎氏

オープンカーで黒澤さんの家の前に行って、バカやろー!って叫んだり…、そう云うのを聞くと、みんなやってるなって笑ってましたと司さん

田中友幸プロデューサーが個人で撮ってらした「用心棒」の8mmでの撮影風景

一番凄かったのは風、大きな扇風機で風を起こすんだけど、そんな中、しっかり目を開けてろ!って言われるんだけど、目、空けられないんだよと苦笑する加藤氏

あの作品は日本の西部劇です、西部劇の影響を受け、日本映画も大胆に演出できることが分かった。

映画は国の違いを超え、世界に通じる言語なんですとスピルバーグ監督

東宝はさらなる商業作品を要求したが、黒澤と三船が組んだのは残り3本だけになる。

「椿三十郎」「天国と地獄」そして「赤ひげ」

彼の真似をする人は多い、でも無類の俳優を真似るのは無理だ、三船にはなれなくても学ぶことは出来る、バリシニコフのような華麗なダンサーにもなることが出来る。

スクリーンに感情を爆発させたとスピルバーグ監督。

三船にはもはや型は必要なかった。

二木てるみさん

加山さんから薬を飲ませられるシーンがあるでしょう? 加山さんに代わって三船さんが薬を飲ませる…、私を巧く騙して下さった…、赤ひげになり切っていたんですねと語る二木さん。

「用心棒」と「赤ひげ」で、三船はベネチア国際映画祭度の主演男優賞を受けた。

しかし三船はその後、黒澤とは仕事をすることはなかった。

黒澤自身も年齢的に、強い侍とか、そう言うものとは違う方向性に向かうようになり、三船さんを出しにくくなったのかもしれないと黒澤久男氏 2人が組んだ作品をもっと見たかったとスコセッシ監督

真相は分からないけど、お互い外国の仕事などやるようになり、流れとしては両方が会って話すことはなかったと思うと野上さん

黒澤はこの時期、鬱病になり自殺を図る。

やがてソ連映画「デルス・ウザーラ」をきっかけにルーカスやコッポラら海外からの支援を受け、黒澤は「影武者」などで再起し、自信の求める映画を作った。

三船さんは黒澤さんとの仕事をもう一度やりたいと思っていたのでは?と野上さん

三船は東宝からの勧めで、社員250名を抱えるプロダクションを経営せざるを得なくなり、パターン化された作品を作って行くが、一方で日本の大スターとして君臨し、海外の映画にも出演した。

「グランプリ」「太平洋の地獄」「レッドサン」 「レッドサン」では、アジア人男優としては珍しくラブシーンもあった。

元三船プロ広報担当明石渉氏 1970年代三船さんにスキャンダルが起きた。

若い女優との不倫だったが、妻幸子は離婚を拒んだ。

当時、三船は何を言ってもまともに受け取られないと言っていた。離婚はしてないと史郎氏 三船は明星に傷をつけたが仕事は続けた。

これから15人斬りますと伝えると、15人も斬れるのかと驚いてましたねと宇仁氏

海外の監督も三船を使いたがった、ルーカスはオビワン・ケノービ役をオファーしたが、海外のエージェントの助言を聞いて断った。

その後、スピルバーグの「1941」に出演した。 あんなに笑う人だとは思わなかったとスピルバーグ監督。

三船はクリストファー・リーと気が合ったんだ、コメディながらも真面目に演じるんだときちんと理解していて、シーンが終わると一番爆笑してたんだとスピルバーグ監督

「荒野の用心棒」 三船は自社の存続のため、TVドラマにも出た。

テレビをやられるようになった時、三船さんの何とも言えないような雰囲気が伝わって来たと明石氏 あの頃から三船さんは、三船を演じようとし始めていたと土屋氏

「将軍」など海外ドラマにも出演したが、映画に出たがっていた、しかし、老いた三船に良い役は回って来なかった。

老いた夫婦役などやってみたかったと香川さん 晩年はセリフが覚えられず、カンペに大きくセリフを書いて、カメラの後ろで僕が持っていたこともありましたと史郎氏 アルツハイマーだったのか、史郎ちゃんが良く面倒を見ていたと野上さん

遺作「深い河」

晩年は 1人でいる時が多くなり、僕と妻と一緒にいることが多かったと史郎氏 20年別居していた幸子も戻るが、ほどなく膵臓がんで亡くなった。

三船は77歳で亡くなった。

まだ侍になっているつもりなんじゃないかね?早すぎると思った。

今はもういない、非常に寂しい…と土屋氏 うちのも、その頃は動けなくなっていた…と黒澤久雄氏

黒澤明も1998年に他界した。

僕たちは、共に日本映画の黄金時代を作ってきたのです。 今その作品のひとつひとつ振り返ってみると、どれも三船くんがいなかったら出来なかったものばかりです。 君は本当によく演ったと思う。

三船君、どうもありがとう!

僕はもう一度、君と酒でも飲みながらそんな話がしたかった。

さようなら、三船君。また会おう…、黒澤明の三船への弔辞を読む香川京子さん

「用心棒」のかかった映画館の前に並ぶ観客の様子
 


 

 

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